戦後復興を遂げ、アジアで初のオリンピックを2年後に控えた1962年、日本交通公社に入社しました。高度経済成長の真っただ中で、仕事も結婚も子育ても、と欲張ってやってきましたが、子供達が自立した時、私に残された仕事、それは大学進学という夢の実現でした。
 宇都宮大学、一橋大学大学院まで足を伸ばして学び、夢を叶えました。そして、2003年に高齢社会への布石として、夫と二人三脚で、皆が楽しく集まり、楽しさも集まるという趣旨で「地域楽集館」を開設しました。現在100数名の会員が、ラージ卓球、健康体操、論語塾、カラオケ教室、健康マージャンなどの講座を楽しんでいます。まさに60歳の進化論です。思えば、33年間JTBの接客業で経験した「ご出発の安心感、お帰りの満足感」が今の仕事に大きなプラスとなっております。
 2015年に夫が他界してからは、その寂しさを埋めるために短歌という新たな慰みを見つけました。その一部を記します。
◎100年の旅の途中の77歳
   残る余白の伸びしろ如何に
◎楽集館三密避けて休業に
   楽しみよりも生命優先とす
◎コロナ禍で日常失くす地球民
   武器も持てずにウイルスと闘う

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私は母校、埼玉県立川越高校同窓会(初雁会)会報の「浅草観音発祥の地、飯能市岩渕岩井堂観音」の記事を見てびっくりしました。
 物心ついた時から祖父母に聞いていた「浅草の観音様は我が家の裏の成木川から流れて行ったもの」の話が具体的な証拠と共に紹介されていました。私達地元有志はすぐに調査を始め、次のような伝承があることがわかりました。
 527年1人の旅僧が聖観音菩薩像を岩井堂に奉る。532年観音像が大暴風雨で成木川に押し流されて行方知れずとなる。約100年後、隅田川で漁師の兄弟が網の中に観音像を見つける(浅草寺縁起にも同様記載)。岩渕の人々はその観音像は岩井堂から流れ出たものと確信し返還要求を始める。
 645年浅草寺は観音像を絶対秘仏にして固持し、返還要求は1300年余り続きました。ところが、昭和8年に突如浅草寺の執事長清水谷恭順氏(後の24代貫主)から「ご本尊様は返せないが分身をお返ししたい」と、一体の観音像が奉還されました(東京日日新聞で報道)。また、岩井堂を浅草寺の奥の院にしたいとの申し入れがありましたが、諸般の事情により実現しませんでした。
 私は、世界中からの参拝者で賑わう浅草観音のふるさと、岩井堂観音が(諸説あります)、郷土の誇りとして今後も多くの人々に尊ばれることを念じています。

岩井堂の聖観音菩薩像