私の上高地 武蔵野 勝岡 只
7月に、この10年近く毎年実施しているいくつかの軽い山行の中の一つとして、7年ぶり10回目となる上高地を逍(しょう)遙(よう)。田代池と大正池をのんびり歩いてきました。
上高地は私にとって様々な山行等に関わっており、手許の記録をもとに振り返ってみると、想い出が次々と浮かんできます。以下、
① 1958年5月の単独行。誕生日記念の初めての上高地入りを前に、穂高連峰を徳本(とくごう)峠から眺めてみたいと思ったものの、己が力量と季節とを考え全線バス利用。相部屋の客と焼岳を目指したが、途中降雪のため中尾峠小屋まで。
② 1958年8月。同期生のO君らと3人で「裏銀座コース」を縦走。ど真ん中の三俣山荘入りの後、大雨で連泊を余儀なくされたものの、それ以外は晴天で、最後は徳澤園に泊り上高地へ。
《1959年からまつ会発足》
③ 1960年8月。からまつ会会員他7名。立山~上高地への大縦走。連日絶好の晴天。3日目は4時5分五色ヶ原山荘出発、薬師岳登頂後、太郎小屋までの12時間半の行程を15時間半かけて満喫。19時35分に落日を見ながらの小屋入りは最高。さらに黒部五郎岳を経て双六小屋泊り。休日が1日少ない私だけ同小屋から上高地経由で夜行列車に乗り継ぎ、翌朝出勤。
④ 1962年8月。からまつ会会員他男性4名。今の高瀬湖ができる前の高瀬川を遡行して伊藤新道経由雲の平へ。祖父(じい)岳と五郎澤でキャンプ。帰路は上高地へ。
⑤ 1966年8月。からまつ会涸沢キャンプ合宿。後半に休みが取れない私は単独で、奥穂高・前穂岳・岳沢経由で再度上高地へ。
⑥ 1967年8月。単独行。折立から太郎平、そして薬師沢経由で高天ヶ原へ。夢の平・水晶池・裏銀座コースを経て上高地へ。
⑦ 1971年5月。誕生日の駆け足山行。上高地の池巡りの後、霧ヶ峰へ。3回目となるお気に入りのクヌルップヒュッテ泊。
⑧ 1978年7月。子どもを連れての家族山岳旅行。新穂高ロープウェイで鍋平高原としらかば平へ。その後、上高地に向かい、大正池・田代池・明神池など観光。
⑨ 2017年6月。単独行。やまのひだや2泊。年齢と体力を考え無理せずに、明神池~大正池間の梓川両岸の平坦コースを一巡。帝国ホテルでティータイム。
⑩ 2024年7月。単独行。今回で上高地卒業。次回はどこへ?
《番外編》1982年8月。単独行。折立~黒部五郎岳~双六岳を経て、1960年には果たせなかった穂高連峰を眺めながらの小池新道~新穂高温泉コースで下山。
自転車とワインとナポレオン② 東京23 栗林 泰夫
ボルドー、ブルゴーニュに続く3回目のフランス自転車旅行の行き先に、地中海に浮かぶコルシカ島を選んだ。コロナが蔓延する直前の2019年秋、島西岸の首府アジャクシオに到着。小さな町の中に1769年ナポレオンが生まれた石造りの家が今も残っている。ここを起点に9日間一周550㎞のサイクリングツアーが始まった。
コルシカ島の面積は四国のほぼ半分、大部分は急峻な山地で標高2000m級の山々が続く。南端の町ボニファシオからは、わずか⒒㎞しか離れていないサルディニア島(イタリア領)がよく見えた。
ぶどう畑は点在するが、盆地や傾斜地を利用し個々のワイナリーも小規模でかわいい。「海の中のアルプス」と形容される山道を電動のマウンテンバイクで疾走する。家畜の豚や牛はほぼ放し飼いでよく出会い、放牧のヤギの群れにしばしばペダルを止めた。小さな港町ではムール貝やクラムチャウダーと白ワインを楽しみ、至福の時を満喫した。
こんな自然豊かな島で生まれ、生涯戦いに明け暮れたナポレオン。小説や映画の印象はこの島にはない。そんなことを考えながら、パリオルリー行きの飛行機に乗り、コルシカ島を後にした。
ふらんすと私 武蔵野 小林 哲郎
今年はパリ・オリンピックで盛り上がった夏でした。私とフランスとの切っ掛けは、JTBを早期退職して金沢にある私立大学の職員として勤務していた頃、かつて仏で日本商社社長をしていたある教授との出会いでした。学生の現地研修に共に同行して、仏文化とそれを形作る言葉に魅力を感じるようになり、その後仕事を離れる時にやろうと思っていた1つがフランス語でした。
退職後は定期的に語学学校に行き、仏語検定を受けることで新しい生活のリズムを作り、精神の高揚感を持たせようとしました。以来10年、御茶ノ水の学校に通ってゼロ発進から2級まで進みましたが、現在はドン・キホーテよろしく万年準1級受験生です。
昨年からは東京都のインバウンド旅行者向けボランティア・仏語ガイドをしたり、数年来の知人の仏人と週1回スカイプでフリー会話を楽しんだりもしています。
フランスには仕事や研修、観光等で複数回訪れたことはありますが、住んだことはありません。コロナ禍前に温めていたパリの大学での外国人向け文化講座を受講することが目下の夢です。
「On apprend à tout âge 」 学ぶのに年齢はない・・・そうありたいものです。
五三同好会卒業式 武蔵野 勝岡 只
五三会とは、1953年4月に関東支社採用の高卒社員の集まりで、「ゴミ会」と呼称する。年齢が60歳となった時、会合希望者だけに絞り、衣替えしたのが「五三同好会」である。会発足のキッカケは、入社2~3年頃、配属先の異なる数名の同期社員が国鉄のセンター(指定券予約のためのセンター)に短期出向(一時関東支社に仮配属して1年後に元の案内所〈支店の前々身〉に戻る)により一緒に勤務したこと、一部の案内所から午後にその日発売の指定券類の乗車日・列車・号車・座席番号に誤りがないか「対照」に来ており、その中に同期生が何人かいたことから、同期会開催、の機運が生まれた。
初めは幹事は持ち回りとしたがうまくゆかず、勝岡が勝手に(万年)幹事を買って出た次第。50年代後半に始まり、最初の数回は、記録は残っていないが、本郷の旅館を何軒か変えて行(おこな)った後、記録上では65年のホテル・ニュージャパン(後に火災を起こし防災不備で社会問題ともなる)から2022年の西新宿の日本料理店まで、合計41回を数える。
前半には、ゴルフ絡み等の1泊旅行が多く、後半は都内中心で、ホテル、和・洋・中華の料理店、東京湾クルーズ、屋形船、幇間(ほうかん)出演のお座敷遊びなど様々。途中から春秋年2回とし、恰好の日本料理店は後半の大半を占める⒔回も続いたが、コロナ禍で閉店となり、会も中断の憂き目を見た。
さて、この4月で入社71年目。年齢もそれぞれ「卒寿」を迎えることになるが、各会員も外出が思うようにならず、顔ぶれも揃わないため、切りのいいところで、会食なしの「卒業式」とすることに決定。それも、私がインターネットに無縁なため、画面上の顔合わせやメールではなく、各自から寄せられた書面によるメッセージを交換・配付する方法と相成った。
振り返ってみれば、3月下旬の入社前教育は、中央区の有名な泰明小学校内に間借中の京橋商業高校の教室にて、支社の教育担当の鳥越軍蔵主任主導の下、本社内案内所・小泉武業務係長の講習を受け、有楽町案内所・秋田貞男所長の訓話に耳を傾け、最終日のバスによる主要案内所巡りの後、皇居前広場で全員記念写真。その中には後年有名人になった田原総一朗さん(入社後の配属先は東京駅内案内所で五三会結成前に退社)の姿もあったっけ。
生き生きと生きる人生の終章 さきたま 小菅 恒雄
昨年10月コロナに感染し、肺炎を併発。救急車で搬送された病院で死を宣告されましたが、九死に一生を得て生還。わずか10日間の入院で極端に体力が低下し、一時歩行も困難な状態でしたが、現在、毎日5千歩のウォーキングと週3回のスポーツジム通いを続け、体力回復の途上にあります。ただ、この際、会いたい人には会っておこうと思い立ち、昨年重度のガンを克服した妻を伴って5月の連休明けに、いずれも40年余りの親交を続けたKさん夫妻の住む屋久島と、JTB団旅東京中央支店時代の旧友Mさんの郷里・高知への旅行を計画しました。
Kさんは私の母校の体育教師を辞め屋久島へ移住。今は古希に近い年齢ながら、小中学生に水泳指導を行い、連日15mの紺碧の海を素潜りで遊泳する逞(たくま)しい海の男で、相変わらず健在でした。しかし、Mさんとは1年前から高知で会う約束でしたが、旅行出発直前に訃報が入り、彼の実家で遺影と対面することになってしまいました。
支部だよりには、毎号懐かしい方々の訃報が掲載され、今さらながら今昔の感を禁じ得ません。JTB在籍期間、そして旅行会社を起こしてからそれぞれ34年、通算68年、旅行業務に携われた幸せを噛みしめつつ、今後も生き生きと過ごしたいと願う今日この頃です。