昭和12年樺太(サハリン)生まれ、昭和23年宮城県一迫町(現栗原市)に引き揚げる。昭和 36年㈶日本交通公社に入社、日本橋江戸橋 営業所(後に日本橋支店)に配属。営業担当。

時に高度経済成長期であり、また東京オリンピックを控え高速道路、地下鉄、ビル建設 の工事と凄まじい状況であった。当然予算は 半年で達成できたが、連日残業、休日もほと んど取れない状況が続いた。主に宝酒造、協 和発酵等の酒造メーカーとK&K国分等の酒 卸問屋をセールス。先輩から自分の好みでセ ールスしていると揶揄される。

その後、本社営業部団体渉外本部に転勤し、 組織団体、大口団体セールス、企画、斡旋を 担当する。特に、天理教、日本傷痍軍人会、日教組、大阪万博、集団就職と日夜忙殺される。集団就職では、那覇港から東京港へ東京丸で48時間約1,000名を添乗するが、身分証明書不 携帯者が5名おり、東京入管で始末書を書く。その後も、鹿児島から大阪までの集団就職臨時列車に添乗したが、各駅での車窓風景は忘れられない思い出となった。

沖縄渡航用の身分証明書(昭和 44 年発行、本社営業部で集団就職の添乗で使用)

突然これからは海外旅行の時代だと、上司の広江課長(後の東北営業本部長)におだてられ海 外旅行虎ノ門支店へ転勤するが、業務知識と語学力で苦労する。

東北へ来て海外旅行仙台支店、海外旅行センターと一貫して海外旅行を担当する。当時現地の 斡旋体制ができてなく、トラブルの連続であった。飛行機が飛ばない、列車が来ない、ホテルが 予約されていない、食中毒、盗難、 病人と添乗員は大変であった。

東北営業本部販売課長の時、日本旅行業協会東北支部を設立すると共 に、修学旅行の4社取扱い料金設定 に携わった。

支店長在任中の最大の 思い出は、八戸支店にて天理教百年祭(小南部大教会)で臨時列車13 本、約8,000名の斡旋に成功し た事でした。

以上は回想の一部ですが、常に偏見と独断、勝手な行動であたりにご 迷惑を掛けました事は、汗顔の至りです。 最後に永年ご指導、ご支援下さいました、みなさんにお礼と感謝を申し上げます。

:「手打ちそば処はたけ山」開店披露での杉本さん(武田富男さん撮影)

八十は老いの序の口冬若葉 (新国劇の島田正吾さん傘寿の句) まだまだ元気です。

平成29年4月7日 杉本 矩雄 79歳

編集後記:本年傘寿を迎えられます仙台市在住の杉本矩雄会員から寄稿をいただきました。お若 い頃は東京勤務が長く、本社営業部や海旅虎ノ門支店等で経験を積まれ、東北では海外旅行の草 分け的な存在となりました。退職後は、当支部理事を永年(1995 年~2004 年まで)務められた ほか、現在も、懇話会、カメラクラブ等BOB会の活動には積極的に参加されておられます。20176