2021年10月14日(火曜日)空海の史跡を尋ねて四国88カ所第77番札所桑多山道隆寺にお参りしました

本尊:薬師如来 別名・瑠璃光如来とも大医王如来とも呼ばれる。
病気平癒の祈願・・天台宗寺院や山間の温泉場などで医療の仏様として薬師堂にまつってあります。
お真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
ご詠歌:願いをば 仏道隆に入りはてて 菩薩の月を見まくほしさに

港町多度津の港にほど近い田園にある札所です。この寺は:土地の豪族、和気道隆が建てたものだという。縁起によると、道隆の桑畑に周囲5m近くもある桑の大木があり夜になると怪しい光がゆらめいていた。道隆がこの光に向けて矢を射ると、悲鳴があり乳母が倒れ死んでいた。悲しんだ道隆はその木で仏像を彫り、ひたすら供養すると不思議にも乳母は生き返ったという。その後、弘法大師がこの寺に留まり薬師如来を刻み道隆が彫った仏像を胎内に納めて本尊とした。

四国遍路88カ所47番八坂寺打ち終え194号線沿いに何気なく衛門三郎跡があった。

今回の旅の中で・私の旅行記に取り上げました。取り上げた理由:文殊院の拝観がきっかけとなりました。正式名は文殊院徳盛寺(愛媛県松山市恵原町):弘法大師と出会ったことによって改心した強欲非道の人、衛門三郎の屋敷があったと伝えられる場所。

四国88カ所77番道隆寺には衛門三郎と弘法大師の像があります。


私が使用した菅傘と金剛杖     金剛杖の減り具合

標題の同行二人は:旅を通して弘法大師と共に歩む路です。遍路にでる旅装束は菅笠、金剛杖を弘法大師のかわりに持って参る。杖の上は 地・水・火・風・空の五輪塔をかたどっています。弘法大師の弟子として遍路に出るのであるから十善戒:殺生・邪淫・お世辞・二枚舌・怒る・盗み・嘘・悪口・欲張る・誤った考え・・・しないで身・口・意(こころ)のはたらきをすべて正しく生きていくことを心に誓い実践して行くことである。これらを守らなければ引き返すしかない。

遍路に出る目的は人それぞれである。現代という社会を生きるには種々の苦しみを背負って生きている。遍路姿は死装束であり遍路は擬死再生の路でもある。自然の中に自分の身を置き、弘法大師と対話して歩き、もう一度生まれ変わる路でもある。

四国88カ所の旅に出るに当たって徳島・高知県1番札所霊山寺から38番金剛福寺は巡拝で歩きました。
10月からはコロナ禍で宿泊の休業が多く順打ち、逆打ち、また最悪で乱打ちになりました。半衣:88札所の御宝印を戴く白衣です。御宝印は御本尊仏様を彰したもので、鄭重に扱う。納経帳も鄭重に取扱い荷物の下敷きにならないように霊場の礼拝、読経終えてから手続きをする。

四国遍路の旅はTVの映し出された光景を見た瞬間一度行って経験したい。そんな願望がありました。激しい遍路道を自分はどこまで歩くことが出来るのか、体力はあるのか、試してみたかった。そんな思いから四国遍路ひとり歩き同行二人をスタートしました。そして今回は香川県の中で77番札所道隆寺を取り上げました。特に理由は私にとって特別な思いがありました。

衛門三郎伝説に深く交わりたいと思いがあって遍路を旅している間晩年住まわれた跡を見たきっかけもありました。四国は交通量の多い多度津町を歩く。橋の中頃で道路を横断する。車に注意が必要でした。横断してから道なりに行くと道は下り坂になっている。左に折れてしばらくして今度は右に折れると77番札所道隆寺の駐車場があった。その時もう歩きたく無い。寺の入口は何処かなそればかり考えて道の塀伝いを歩いていた。細い路地に出会いここかなと寺へ行くかな記憶の中では寺の脇道から入っていたと思う。入ってみると四国霊場の雰囲気がない様に思われた。観音像がたくさん立っていた。後で調べたら・・遍路に行く前にも調べてあったがここは全国の観音像を祀ってある。ここの境内は不思議な感じがしました。打ち終わり帰りには山門から出て帰ったのですが一般道路と段差がなく山門から本堂へ通じています。山門と本堂迄行く参道は階段が無く私は何となく呆気にとられ不思議な風景を見ました。

仁王像 上半身裸筋骨隆々阿形像は怒りを内に秘めた表情を表すものが多い。仏敵が入り込む事を防ぐ守護神。

仁王門をくぐると、ずらりならんだブロンズ像の観音像が優しい顔で迎えてくれる。その数なんと180体。観音像の列に導かれるように境内を進むと右手に鐘楼、大師堂、多宝塔、正面が本堂。床が地面と同じ高さにあり欄干もなければ階段もない。観音像の列は本堂手前左から本堂の回りを半周し裏手の水子観音像まで続いている。途中に、目の病気に霊験があるという・・・潜徳院殿もある(ひらがなめを年の数だけ書く参りがあります)

 
                      稚児大師 弘法大師空海の幼き頃のお姿です。誕生は善通寺

遍路の元祖・衛門三郎

伝説の所見いつ、誰によって四国遍路が開創されたのか、歴史的には資料がなく不明です。まして、最初に遍路した人物など、分からない。ところが四国では遍路の元祖とされる人物が語られている。それが・・・衛門三郎です。

第51番札所石手寺に伝わる・・・・石手寺刻板です。

 

51番札所石手寺

 

淳和天皇の載(とし)衛門三郎は利欲にして富貴を求め悪逆にして仏神を破る。故に八人の男子頓死す。それにより髪を剃り家を捨てて四国遍路に順う。阿州・・・焼山寺・・の麓に於いて病死する。

焼山寺・・

衛門三郎の悲劇

弘法大師は四国霊場を巡検した。伊予国、浮穴群に来た時忽然と一人の童子が現われて尊師、霊場開くといえども人々未だ仏法入り難く願う願くば邪険の輩を善導し、拝所巡拝なさしめば末世の鑑みたるべし・・と告げて消えた。近くの小屋に身を寄せた大師は周辺の集落で托鉢をおこなう。そして、衛門三郎の屋敷の門前にも立った。伊予の大守河野家の家人であり、大富豪の衛門三郎は伊予国浮穴群(愛媛県松山市恵原町)に広大な屋敷を持ち妻と八人の子供(五男三女)があった。しかし、その莫大な財は強欲非道によるものだった。

みすぼらしい姿で托鉢に来た大師を衛門三郎は追い返す。それでも大師は諦めることもなく毎日門前に立つ。あまりのことに怒りを露わにした衛門三郎は竹ほうきで打ち付けた。すると、大師が持っていた鉢は八つに割れて飛び去り山中に落ちて池になった。

翌日、衛門三郎の屋敷では悲劇が起こる。長男が病から急死した。それから毎日一人ずつ子供が死んでいく。八日目には最後の子供も死んでしまった。大師は子供たちの死から一夜にして八つの塚を築いた。父親が大師への布施を拒んだだけでまったく罪のない子供たちが死んでしまう。なんとも醜い話です。大師は人の命をも奪ってしまうのか。子供たちは衛門三郎の悪業が現われたものではないだろうか。一人ずつの死は悪業が徐々に浄化されていく様を表現したとも考えられる。

衛門三郎の旅立ち

あまりの出来事に前非を悔いた衛門三郎は、乞食の僧は四国を巡錫しているという空海上人に違いないと思い許しを乞うため大師が逗留した小庵にむかう。しかし、すでに大師は旅立ったあとで、等身大の自作像のみ残されていた。戻ってくるかもしれないので、札に名前を書いて小庵の柱に打ち付けた。これが納め札の期限ともいわれています。

小庵は札始大師堂

妻に別れを告げた衛門三郎は大師に会うため四国遍路に出る。しかし、大師に出会うことができず遍路の旅は終わることがなかった。何周目かで故郷の惠原の近くを通ると自宅あたりで煙が見える。素性がわからないようにして茶店で聞いてみると衛門三郎という非道を重ねた男の妻は剃髪して八人の子供の塚の前に庵を結んで供養していた。しかしきのう亡くなったので今日は野辺の送りをしているという。改めて自らの悪業を悔やみ、それでも家に帰ることもなく遍路の旅を続けた。

衛門三郎の死・・と再生

二十回遍路しても大師に会うことが出来ない。そこで二十一回目は逆に巡ることにした。大師は順に巡っているので逆に巡れば必ず出会える・・・。現在も行われている逆打ちである。第十二番札所焼山寺の麓まで来た時長年の疲労から倒れてしまった。そこに大師が現われる。

焼山寺

 

再生

衛門三郎から「本家の河野家に再生したい」・・との最後の願いを聞き入れた大師は「衛門三郎再生」と書いた小石を左手に握らせた。・・・すると衛門三郎は眠るように息を引き取る。衛門三郎が持ち歩いた杖を逆さに刺すと根付いて大木になった現在の杖杉庵に墓がある。

伊予の太守河野息利(おきとし)に男子が誕生し、息方(おきかた)と名付けられた。ところが息方は左手を握ったまま開こうとはしない。河野家の祈願寺である安養寺の僧に加持させたところ手が開いて「衛門三郎再生」・・と書かれた小石が出てきた。成長した息方は安養寺を再興して小石を納め寺号を石手寺に改称した。そのときのものとされる小石が現在も石手寺に伝わっており「玉の石」と称されている。

衛門三郎の屋敷跡には後に文殊院徳盛寺が建立された。境内から鉢降山を望むことが出来衛門三郎と八人の子供像や位牌を安置している。

 

文殊院という院号は伝説の冒頭で大師の前に現われた童子が文殊菩薩の化身とされる事に由来する。

誕生の奇譚

手に何かを握って生まれてくる人物は霊的な性格を有している。衛門三郎も尋常な人間ではなかった。過度に裕福だった衛門三郎は大師と出会うことによって過度な貧困の世界へと落ちていく。さらに大師と再会した衛門三郎は伊予国の太守という過度なる裕福を再び取り戻すことができた。両極端の過度な世界を体験した衛門三郎は極めて特異な存在だった。だからこそ四国遍路の第一号に成り得たのである。

衛門三郎伝説の最後の舞台は石手寺・・・・

四国88カ所道隆寺は以上です