関東支部から 「関東支部だより6月号」が掲載されました

湘南倶楽部創立30周年記念バス旅 「早春の三島を訪ねる!」

 4月8日、横浜駅に28名が集合(現地参加2名)。雨を心配しつつ、定刻8時に出発しました。東名高速は混雑もなく、バスは雪帽子の富士山を右に左に見ながら走り、三嶋大社に到着。図らずも満開の桜が迎えてくれ、皆大喜び。奈良時代の古文書にも出てくる伊豆国随一の社に参拝しました。そして早めの昼食、お楽しみの鰻屋へ。三島鰻の旨さは富士山の伏流水にあり……清水に数日さらされた鰻は、身もふっくらとして香ばしく、誠に誠に美味でした。雨がポツポツ落ちてくる中、柿田川湧水公園へ。富士山に降った雪が28年を経て、こんこんと湧き出ていて、自然の神秘を感じずにはいられませんでした。続いてスカイウォークへ。全長400mの吊り橋で、高所恐怖症の数名を除き空中散歩を楽しみました。朝見えた富士山は雲隠れでしたが、遠く駿河湾を望めました。最後は伊豆フルーツパークでお土産を買い込み、横浜への帰途に。6年ぶりのバス旅も、手頃な参加費で内容も濃かったと、好評のうちに終了しました。(鷲澤 記)

第9回にいがた街歩き

4月10日、13名の参加で新発田編を実施しました。新潟駅より㊵分で新発田駅へ移動。ボランティアガイドの案内で、新発田生誕の実業家大倉喜八郎が、東京向島に建設し、近年新発田に移築された蔵春閣を見学。明治時代、渋沢栄一や政財界の大物、海外からの賓客をもてなす迎賓館としての役割を担った。水晶のシャンデリア、欄間の彫刻、そして谷文晁筆と言われる天井画等絢爛豪華を象徴する建築物。この後、県内唯一の大名庭園清水園と足軽長屋を見学。前日の悪天候から一転、青空と桜そして緑の回遊庭園が織りなす『春爛漫』を楽しんだ。食前酒を王紋酒造での試飲で済ませた後、「割烹北辰」にてミニ会席を堪能し、自由解散で駅まで移動、帰路の途へ。(高橋 記)

蔵春閣前にて

清水公園つつじ鑑賞とバーベキュー

4月18日、つつじの花も開花し始めた野田清水公園バーベキュー会場で他倶楽部9名を含む32名の参加で開催しました。新倉代表の挨拶、二階堂さんの乾杯で開宴し、今年は有名銘柄の日本酒、新発売のビール等飲み物の内容も充実して、皆さん酒量も増えました。また、新鮮な肉、野菜も十分で、参加者全員満足して話が弾んでいました。心配された天気も予想が外れ、絶好のバーベキュー日和となりました。初参加の方も含め昔話に花が咲き、楽しいひと時に時間の経つのも忘れ、予定時間を過ぎてから矢澤事務局長の中締めで来年の再会を約し終了となりました。(西袋 記)

久慈川畔のお花畑でバーベキューパーティー

4月30日、「道の駅常陸大宮・かわプラザ」にあるバーベキュー広場にて、⒓名の参加で開催しました。目の前は広々とした久慈川の河川敷、周りは春の花々がいっぱい・・・、少し雨模様ではありましたが、バーベキューと親睦を皆で楽しみました。寺門代表よりたくさんの野菜が提供され、それに新鮮な肉魚貝…お腹を満たして、次回(夏の懇親会)の再会を約束し帰路につきました。(池田 記)

退職後のセカンドライフ さきたま 石黒 憲二

まずは、退職前から計画していた旧街道の東海道・中山道・甲州街道を歩くことから始めました。構想を練って、気侯を考えながら日程を組み、踏破しました。江戸時代の人になった気分で楽しい時を過ごしました。その後、同じシ二アが集まっている地元のシニア大学に入学し、2年間の講座と部活動で充実した日々を過ごして、卒業後も部活動を継続しながら、仲間達と楽しい時を過ごしています。地元の歴史にも興味がありましたので、浦和ガイド会会員募集に応募し、ボランティアガイドとして活動しています。ガイドをする際、いかにして時間内にガイドを終わらせるか、資料作りに苦労していますが、無事に当日ガイドを終了した時には達成感が得られ、それを糧に頑張ってガイドを続けています。また、地元の公民館広報に掲載する【私たちの浦和学】のテーマを与えられて、会員が順番に原稿を作成しています。色々な文献に接するので、ガイドする際の資料作りに役立っています。今後も勉強しながらボランティアガイドを続けてゆきたいと思います。

旅の途上~フィリピンで~ さきたま 小見山 進

もう50年前の出来事。私は某製薬会社による薬局オーナー25人の招待団体旅行の添乗員でフィリピンマニラに行った。3泊4日の旅で、その3日目のことだった。マニラからバスで2時間半程のパグサンハン(映画『地獄の黙示録』のロケ地)の川下りを楽しんでの帰り、マニラ郊外に差しかかると、突然空が暗くなり、豪雨になった。川の水が溢れ、道路は見る見るうちに濁流に飲み込まれた。橋が流された。バスはその場で立ち往生。日が暮れて暗闇になり、バスの運転手とガイドが様子を見に行ったが、そのまま戻らず。26人の日本人がバスの中に取り残された。水かさが増しバスは流され、ガードレールに引っかかって止まった。「マニラ郊外で日本人観光客26人が遭難」、翌日の新聞記事が頭をよぎった。バスの中が騒然としてきた。その時、「添乗員さん遠くに灯りが見える」という声がした。それを聞いた私は「このままここにいたら、バスごと流されて死んでしまう。灯りに向かって歩きましょう。水は腰までの深さです。荷物をまとめて頭の上に乗せて私の後に付いてきてください」と話し、闇夜の濁流の中を先頭になって歩き出した。20~30分くらい歩くと、小高い丘の上で数十人が焚き火をしていた。人々は私達に驚きながら、焚き火の周りに招いてくれた。私は命が助かったと思った。団員に「お土産に買ったお菓子でもいいから出して、お礼に使わせてください。歌を歌ってお互いに励まし合いましょう。日本が戦争をしていた国です、軍歌はダメです。童謡にしましょう」と提案した。そして、その場は日本とフィリピンの歌合戦のような大合唱になった。しばらくすると、フィリピン軍のトラックが来た。日本人観光客で、マニラに帰る途中で遭難したことを訴えたところ、私達はトラックでマニラのホテルまで送られた。夜中の1時だった。後に、当時のフィリピンは戒厳令下で、夜中の12時には軍隊の見回りがあり、その軍隊に助けられたことがわかった。その日の朝8時にマニラを出て、正午には全員が無事羽田に帰ることができた。たくさんのお土産話を持って・・・。
【共同通信元記者のブログより】人は日々、死と隣り合わせて生きている。それを意識するか、人によって異なる。ここで紹介した小見山進さんの体験は、限界ぎりぎりに追い込まれても人の生きる力の強さを示している。

武蔵野倶楽部 漫遊フォト日記 国立の府中用水と矢川・湧水・谷保天満宮を巡る